飯盛山の歴史のおはなし
飯盛山(いいもりやま)は、戊辰戦争慶応4年(明治元年)~明治2年(1868年~1869年)の戊辰戦争で、悲劇の舞台となった山です。
会津藩は、15歳から17歳の少年で「白虎隊」を 編成し、その中でも、二番隊は、明治元年(1868)8月23日、戸の口原での戦いで決定的打撃を受けて潰走し、 負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びました。
だがここから眺めた戦闘による市中火災の模様を鶴ヶ城が落城したものと早計し総勢20名が自刃。
一命を取り留めた飯沼貞吉氏が生還し記録を残したことで、今日に至るまで、少年たちの悲劇が伝えられることとなりました。
戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされ白虎隊士の遺骸も埋葬を許可されず、密かに妙国寺に仮埋葬されておりました。
明治2年にようやく飯盛山の中腹に合葬がゆるされ、私ども飯盛一族は、土地三反歩を旧藩主に献納し、自刃19士の白虎隊墓地が新設されたことで、「飯盛山は、わしが守る」と、初代「飯盛キン」が慰霊を尽してから、 二代目・三代目と継承し、現在で四代目となりました。
これからも、ご礼拝にお越しになる皆様方へは、ご満足の頂けるおもてなしで、 お迎えを致したいと思っております。
会津ゆかりの詩歌
「なよ竹の風にまかする身ながらもたゆまぬ節はありとこそ知れ」
今日の一行は、幕末期の会津藩の家老、西郷 頼母(さいごう たのも)の妻、西郷千重子の辞世の句です。
西郷千重子 (さいごう-ちえこ 1835-1868)
天保(てんぽう)6年生まれ。陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)家老西郷頼母と結婚。
慶応4年8月23日、戊辰戦争で兵力で勝る新政府軍は会津・鶴ヶ城攻撃に殺到、城下は包囲されてしまいます。
夫の鶴ケ城入城を見送った後、家族、親戚等21人とともに自刃(じじん)しました。享年34歳。本姓は飯沼。
共に自刃したのは、母・律子(54歳)、妹の眉寿子(26歳)と由布子(23歳)、長女・細布子(16歳)、次女・瀑布子(13歳)の5名。
他に、田鶴子(9歳)、常盤子(4歳)、季子(2歳)の幼い娘達が、母の手によって命を奪われました。
そこで今日の一行です。
「なよ竹の風にまかする身ながらもたゆまぬ節はありとこそ知れ」
戦国時代、落城の際に女子供は城から出て実家に帰されるのがしきたりでした。
中には殉死する女性も存在しましたが、多くは命長らえたものです。
天下泰平の江戸時代を経て、歴史上最後の政権戦争が勃発した幕末。
殉死する女性の多くが語る、「生きて後世に恥を残さぬ」。
潔さと同時に、悲しみを禁じ得ない悲痛な言葉です。
我が子を手にかける時、母の心にはどんな思いが去来したのでしょう。